3月11日に福島県にいた話④

本日は3月10日。3月11日は東北で震災があった日ですよね。8年前になりますが、2011年3月11日に私は福島県郡山市にいました。震災が起こる前から。といっても福島県に住んでいたわけでなく、杏林大学の医局派遣により毎週金曜日に郡山市の南東北病院で外来をしていたのでした。そこの病院は外科が中心でしたが、内科や入院中にストレスとなり心療内科的なフォローが必要な方もおり呼ばれていたわけです。毎週1回朝7時には新幹線に乗り郡山まで通っていました。この仕事が決まった経緯も単純で当時の医局長に「先生は駅弁は好きですか?」と聞かれて、「はい、好きです」(きらいですという人はいないんじゃ、、、)と答えたところ、「駅弁食べれるから福島県の仕事を頼むよ」???と即決で決まってしまったのでした。
3月11日に地震が起こった後、(詳細は過去のブログをごらんください。時間があったらで結構です、、)新幹線も線路に木が倒れているため全く復旧の見込みがたっておりませんでした。これからどうなるのかと思いながらも病院で処方したり書類手伝ったりうろうろしておりました。目の前では抱き合って無事を喜ぶ家族や家が亡くなってしまった無念で泣き崩れる方も目の前おりました。
その時、何気なくテレビから「新幹線が復旧見込みはたちませんが、飛行機は臨時飛んでいる」という情報が。なに!空か。全くの誤算でした。長野の田舎で新幹線に乗ることが精一杯の私は飛行機は10回も乗った事はありません。
さすがに、大学での仕事もありし、入院中の患者さんもいる。また、福島県にいても今は手伝うことが限られているし、何とか飛行機で帰ることに決めたのでした。目的は福島空港。病院からは10㎞ほど。タクシーは捕まらず、また道路はガソリン給油の車で渋滞かつ、道路は地割れもあり交通は困難でした。まだ、昼である歩くしかないと病院の職員さんに福島空港から帰ることを伝え、3日間過ごした病院に別れをつげました。といっても歩くのは大変なんですね。3日間余震がひどく起こされるのと寝ていたのがバナナの形した病院のロビーのソファなんでほとんど寝ていません。うとうとしながらも福島空港への道をひたすら歩きました。看板があり道に迷わなかったのが救いでした。携帯電は充電が切れそうであり電源がつけれれませんでしたひたすら歩き3時間位で福島空港には着いたと思います。空港には人がいっぱいであふれていました。福島空港は通常は東京行はありませんが、(確か当時は北海道と高知にいく便が主であったと思います)臨時便が出ているとのことでした。切符購入のためにひたすら並びました。長蛇の列。全然進みません。みな疲れもあるのか床にすわり列が進むのをまっておりました。私の前に並んでいる親子は福島県の大学に進学が決まりアパートを探しに来たのだが4月からどうなるのかと話し、私の後ろに並んだスーツ姿に男性は出張できていて帰れなくなっていたとのことでした。空港で並んでいる間も余震は止まらず、空港もつぶれてしまうのではないかと思うほどでした。13時頃に空港に着きましたが結局21過ぎの切符を購入し空港で待機しておりました。何か食べたいけどお店も空いておらず財布にもお金はあまりはいっていませんでした。
長時間の待機後に21時となり飛行機に乗り込むこととなりました。やっと自宅に帰れるとホッとしましたが、余震が安定しないのと緊急事態でありできるだけ多くの乗客を乗せるためとキャンセル繰り上げを何度も行い席が満たすまで待機しておりました。
大変な状況であったにもかかわらず冷静にてきぱきと仕事をする空港スタッフに感動したものでした。
22時過ぎに福島空港を出て1時間位で羽田空港に到着。降りたときは腰がぬけそうでした。
自宅に帰宅したときは安堵と空腹と疲れで玄関で倒れこみそうでした。
そんな感じで2011年3月11日から3日間福島で過ごした話でした。

吉祥寺いろはメンタルクリニック 日比慎太郎